コー・イ・ヌール(光の山) (Koh-i-Nur) 〜500年の歴史を語る最古のダイアモンド〜 |
人類最古のダイアモンドはコー・イ・ヌールで、1304年頃発見された後、 このダイヤはインドのラジャ王一族が所有しておりました。 200年後ムガル帝国の皇帝の所有となり、世襲財産として代々の王に継承されました。 タージ・マハルを建立したシャー・ジャハーン帝を経た後、人手を転々としたと言われます。 1739年ペルシャ王シャー・ナディールがインドに侵略した際、このダイヤはペルシア王の手に入り、 王はそのきらめきを見て「コー・イ・ヌール(光の山という意味) !」と叫んだといわれます。 そのダイアモンドの魔力は、次々にそれに関わる人を不幸にしていき、 代々の王は悲劇的で残忍な死に方をしました。 コー・イ・ヌールは男性に不幸をもたらしますが、女性には幸運をもたらすという言い伝えがあったので、 1850年に東インド会社を経てビクトリア女王に献上されました。 1851年ロンドンの第1回万国博覧会に出展されましたが、輝きの少なさに人々が失望したため、 女王はアムステルダムの研磨師を招いて再研磨させました。 再研磨前の186ctから108.93ctに仕上げられ、その後も戴冠式などで 重要な英国王室の宝石としての地位を占めております。 現在はイギリス王室のほかの宝器とともにロンドン塔の地下の宝物室に陳列されています。 |
サンシー 〜略奪と血ぬ られた運命に翻弄されたダイアモンド〜 |
血生臭い歴史を繰り返しながらも、最後には英国政府の国宝に指定されるという 不思議な運命を持つダイアモンドに「サンシー」があります。 1570年頃トルコのフランス大使でサンシーの領主、ニコラ・アルレーがコンスタンチノープルで 手に入れたことから「サンシー」の名がつきました。 このダイアモンドはアーモンド型の美しい面を持つ約53カラットの逸品でしたが、それ以前は 誰が持っていたのか謎に包まれています。 ファセット(面)が対称に研磨された最初のダイヤです。 彼はこれをフランスに持ち帰りました。 1605年サンシーはイギリスのジェームズ1世に売られ、 その後フランスのルイ14世に売られました。 1792年の王室財宝庫からの宝飾品の盗難で他の宝石と供に盗まれましたが、 1828年フランスに返却されました。 その後も色々な人手に渡り、1906年ウィリアム・W・アスターが購入しました。 しかしインド・パチアラのマハラジャがこのダイヤを持っていると主張。 2つのダイヤは似ていますが、アスター氏の方が、サンシー・ダイヤモンドの記述 (55ct 全面ファセットのぺアー・シェープ)に一致しています。 フランス本国のアンリ三世が借りうけましたが暗殺されてしまいます。 いったんサンシー卿のもとに戻りますがアンリ四世に貸す為に若者を使いに出しましたが 賊に襲われ死んでしまいます。 しかし若者は賊に襲われたときダイアモンドを飲み込み山賊にとられずにすんだのです。 以後ダイアモンドは転々としたのちパリ博に出品され貴族が購入しました。 貴族の死後イギリス政府がこのダイアモンドを国宝に指定しました。 現在はルーブル美術館に展示されています。 |
ホープ(Hope) 〜魔性の青いダイアモンド〜 |
カリナンが世界最大のダイヤモンドなら、こちらは世界最大のブルーダイヤモンドである。 フランスの宝飾師で旅行家のタベルニエが1642年112.25ctのブルーのダイヤをインドで購入、 これをルイ14世に売り、再研磨されハート形になったといわれています。 1792年の王室財宝庫からの宝飾品の盗難後消失しました。 出典によって異なりますが、このダイヤはサイズがかなり小さくなった状態で1830年に ロンドンで売りに出され再び姿を現わし、銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープによって 購入されホープ家が長い間所有した為、ホープの名がつけられました。 その時にダイアモンドは分割されていて45.5カラットの楕円形のものになっていました。 その後トルコ皇帝アブダル・ハミットII世が購入しましたが1年後には退位させられ、 エドワードB. マクリーンによって夫人の為に買われました。 不幸にもこのダイヤが災いのもとといわれる様に家族に事故などが起こりますがマクリーン夫人は 持ち続け、夫人の死後、宝石商ハリー・ウィンストンがホープを購入し、個人コレクションに加えました。 この、持ち主が次々に非業の死をとげると言われた不吉なダイヤモンドは、宝石の魔力を語るのに 最も多く取上げられているが、この「非業の死」は殆んどが後に脚色されたり、こじつけられたりしたものだという。 ホープダイヤモンドが最初に歴史に登場したのは1830年頃のことである。 もちろんそれ以前にもホープと思われるブルーダイヤにまつわる話が残ってはいるが、原石の状態だったり、 カットの形が違っていたりして確認はされていない。 ホープダイヤモンド 1830年(一説には1824年)イギリスの銀行家であるヘンリー・フィリップ・ホープは、 一つの巨大なブルーダイヤモンドを購入した。 彼は最も早い時期のファンシーダイヤモンドの蒐集家であり、1839年には「ヘンリー・フィリップ・ホープ氏による 真珠と宝石コレクション目録」という本が出版されている。 この中には50個のダイヤモンドの項目があるが、その第一番に登場するのがホープダイヤモンドなのである。 のちにこの石は転売され、持ち主を変えていくが、その中の数人が不幸な最期を遂げたという話が、 やがて持ち主を悲劇に陥れる不吉なダイヤモンドとしての評判を作ってしまった。 しかし、この話はこの石に多く関わった宝石商「カルティエ」の創作だという噂もある。 カルティエは、それまでセットされていた台からこの石をはずしてリフォームし、その後30年に渡って ホープダイヤモンドを所有することになるマクリーン夫人に売ったのであるが、マクリーン夫人は 「他人には不吉な物が、私には幸運を呼ぶ」と言った為に、カルティエがこの話をつけたのだとも言われている。 そして1946年、ハリー・ウインストンがマクリーン夫人のコレクションを全て買い取り、1958年の11月10日、 これをスミソニアン博物館に寄贈したのである。 ウインストンは、ホープダイヤモンドの不吉な噂には殆んど関心を払わず、この石を持って沢山の旅をしたが、 もちろんウインストン家には災いは起きていない。(もちろん現在も世界的な宝石商である) 現在もスミソニアン博物館のミネラルコーナーで、この奇跡的な石を見ることができる。スミソニアンは、 これを門外不出としているが、過去に2回だけ海外の展示会に貸し出したことがある。 1度目は、1962年にパリで開かれた「フランス宝石の10世紀」であり、フランスはこの展示許可に対して後に 「モナリザ」をワシントンに貸してくれるというお礼をした。 2度目は、1965年にヨハネスブルグで開かれた展示会への貸し出しで、この機会にダイヤモンドシンジゲートの デビアス社が、ホープダイヤモンドを科学的に調査しており、この石が、深さ12.6ミリ、長さ25.6ミリ、幅21.9ミリの 「シミも疵もない完璧なダイヤモンド」であるということが立証されたのである。 |
リージェント(Regent) 〜伝説のダイアモンド〜 |
リージェント・ダイヤモンドが発見された当初の大きさは410カラットだといわれますが、その後、 ブリリアントカットされて140.5カラットになりました。 伝説といわれる所以は、不幸な出来事が連続したことによります。 18世紀始めのインドインドのパテール鉱山で、一人の鉱夫が巨大なダイヤモンドを発掘し、ダイヤモンドが わからないように自分の脹脛(ふくらはぎ)を抉ってダイヤモンドを隠しもってその鉱山から脱走しました。 鉱夫は、イギリス人の船長に「儲けを半分払う」と約束して船に載せて貰いましたが、この船長は鉱夫を 殺して海に放りこみダイヤモンドを手に入れます。 船長は、インド人の宝石商にダイヤモンドを1000ポンドで売り払いますが、その後は放蕩生活を続けた 揚句に浮浪者となり首を吊って自殺したといわれます。 このダイヤモンドを買った商人は、イギリス提督でインド・マドラス知事であったトマス・ピット (第11代イギリス首相のウィリアム・ピットの祖父)に2万4000ポンドで売ります。 ピットは7年間保有していましたが、この間に2年の歳月を掛けブリリアンカットを施したため140カラットの ダイヤモンドと小粒なダイヤになりました。 ピットは、1707年、フランスのルイ15世の摂政=リージェントだったオルレアン公フィリップにダイヤモンド 13万5000ポンドで売り渡します。 このダイヤモンドを売ったピット家に大変な富を得て、孫のウィリアム・ピットは後にイギリスの首相となり イギリス史に残る大政治家として知られています。 以来このダイヤモンドはリージェントと呼ばれるようになりました。 リージェントはその後、マリー・アンネワットの帽子を飾り、1792年の王室財宝庫からの宝飾品の盗難後消失。 その後発見され、ナポレオンの剣を飾りましたが、ナポレオンは戦費調達のために、このダイヤモンドを オランダ政府に質入をします。 しかし皇帝の戴冠式の折には、剣の柄に飾り立てたようです。 ナポレオン追放後、妻のマリー・ルイーズが持ち出しましたが、父親のオーストリア皇帝がフランスへ返却しました。 しかし、フランス革命後はホープなどと共にリージェントも表舞台から姿を消しますが、やがてシャンボール城の 石の坂の裏に隠されてある屋根裏部屋から発見されました。 現在、ルーブル美術館に収められています。 |
カリナン(Cullinan) 〜世界最大の大きさのダイアモンド〜 |
後に「カリナン」と名付けられることになる巨大なダイヤモンドの原石が、南アフリカのプレミア鉱山で 発見されたのは1905年1月26日のことである。(カリナンとは、この鉱山を開いた人物 サー・トーマス・カリナンにちなみ命名)最初、この原石はあまりに大きかったため、鉱夫が 発見した時は誰かがイタズラでガラスを埋め込んだと思い、手に入れた後もしばらくはガラスと思っていた。 誰もこれがダイヤモンドであるとは信じられなかったという。 それほど大きかったのです。その重さは、3106カラットあり、大きさは、長さ101mm、高さ63.5mm、幅50.8mmだった。 カリナンが発見されるまで世界最大だったダイヤモンドは、1893年にヤーガスフォンティンで発見された 「エクセルシオール」で、これが995.2カラットであるから、カリナンの大きさがいかに桁外れであるかわかって 頂けると思う。 カリナンは、発見されてから何人かの専門家の手によって鑑定されたが、その誰もが「これまで知られている 極めて大きい原石のどれよりも純度が高い」と言っている。 カリナンは最初、原石のままでヨハネスブルグとロンドンで展示され、その後2年間は買い手が表れることは なかったが、南アフリカのトランスバール政府に売却され、そこからイギリス国王(エドワードⅦ世)に 66歳の誕生日の贈り物として贈呈されることになり、研磨の大役はアムステルダムのI.J.アッシャー社に 依頼された。 アッシャーでは、この世界最大のダイヤモンドを研磨するために特注の機材を用意し、その作業には 研磨職人3人が1日14時間働いて8カ月かかったという。 また、このあまりに大きな石を割る作業にあたっては、立ち会った社長が失神したという話も伝わっているが、 これはどうやら作り話らしい。 だが、作業を担当した勤続20年の職人、アンリ・コー氏は、研磨終了後ストレスから神経衰弱にかかり 南アフリカで静養したという。 カリナンは、最終的に大きな9つのダイヤモンドと96個の小さな石にカッティングされた。 |
カリナンTの大きさは58.9×45.4ミリで、群を抜いて世界最大の研磨済みダイヤモンドである (530.20カラット、ペアシェイプ・カット)。 これを贈られた国王エドワードZ世は、カリナンTを“グレート・スター・オブ・アフリカ” (The Great Star of Africa)(アフリカの偉大な星)と命名し、英国王笏(Royal Scepter) にセットするように命じた。 これは世界最大のカットダイヤモンドとして有名(現在は世界第2位)。 現在もイギリス王室が所有しており、ロンドン塔で永久展示されている。 |
* 国王冠。 リングリットの正面に、カリナン第2(317.40カラット)が据えられている。上写真
カリナンII世(317.40カラット、クッション・シェイプ・カット)は「大英帝国王冠 (Imperial State Crown of Great Britain)」に飾られている。 カリナンIII世(94.40カラット、ペアシェイプ・カット)、カリナンIV世(63.60カラット、 クッション・シェイプ・カット)は「メアリー王女の王冠(Queen Mary's Crown)」に 飾られており、2つを合わせてペンダントとして使うこともできる。 カリナンV世(18.80カラット、ハート・シェイプ・カット)はメアリーのブローチに飾られているが、 新たな王冠を作るためにメアリーの王冠からコ・イ・ヌールが外されたため、 その代わりにはめられることもある。 カリナンVI世(11.50カラット、マーキス・カット)は、エドワード7世が妻アレクサンドラに贈り、 現在ではエリザベス2世所有のネックレスの一部となっている。 カリナンVII世(8.80カラット、マーキス・カット)とカリナンVIII世(6.80カラット、楕円形のブリリアント・カット)は 合わせてひとつのブローチとして使われている。 カリナンIX世(4.39カラット、ペアシェイプ・カット)はメアリーのために作られた指輪に飾られている。 カリナンUは、サイズ44.9×40.4ミリで、現存する2番目に大きなダイヤモンドである。 これは、インペリアル・ステート・クラウン(王冠)の正面にセットされ、このふたつは現在でも 王室宝飾品として、ロンドン塔で見ることができる。 では、残りのカリナンはどうなったか。 実は、TとU以外のカリナンは仕事の報酬としてアッシャー社が保有していたのだが、 カリナンYは結局国王が買い取り、また、VとWは1911年のジョージ国王戴冠式のときに メアリー王妃の新しい王冠にセットされたが、これらはのちに個人的にも使用できるように 取り外しできるようになっていた。 最終的にはこれらすべては現在の英国女王エリザベスU世が所有しており、公の場でも 着用されることが多いという。 カリナンは世界最大のダイヤモンドだったにも関わらず、発見から売却まで一貫して大手の業者によって 行われたために(しかも最終的な持ち主は英国王室)いたって穏やかな運命をたどっている。 ただ、このカリナンの原石には大きな劈開部(割れて平らになった部分)があり、もしかすると 本当はもっと大きな石だったのではないかという噂が絶えずつきまとった。 歴史の中には、このカリナンの片割れと噂された石が何度も登場しているが、いずれも未確認である。 |
南アフリカ繁栄のダイアモンド 〜南アフリカの星〜 |
その昔、南アフリカでは大きな鳥が頭上を飛び、ダイアモンドを落とす、と信じられていた時代がありました。 この迷信は「南アフリカの星」の発見によって覆されました。アフリカ人の羊飼いブーイがオレンジ川の近くで、 偶然光る石を見つけました。 彼は人づてに紹介されたニカルクにその石を見せたところ、ニカルクは即座に自分の全財産である羊500頭、 牡牛10頭、馬2頭と石を交換しました。 石は83.5カラットのダイアモンドであることが確認され、ニカルクは11,300ポンドで売り渡しました。 「アフリカの星」と呼ばれる83.5カラットのダイアモンドの発見について、南アフリカ議会では 次のように述べられています。 「諸君、このダイアモンドは、南アフリカの・・・、将来の繁栄の基盤となる石である。」 |
The Idol’s Eye |
1650年頃にインド発見され、原石の大きさは787カラットあったといいます。 エクセルシオールが発見されるまでは世界最大の原石でした。 卵を半分にした形と言われますが、発見後すぐに行方不明となり、現在にいたっているそうです。 |
エクセルシオール(Excelsior) |
1893年6月30日にアフリカのヤーヘルスフォンテーン鉱山で労働者により発見されました。 その日の夕方、彼がシャベルで、砂利をトラックに詰めていた時に巨大なダイヤモンドを見つけました。 彼は最初、現場監督には隠していましたが、悩んだ末に鉱山オーナーの手に委ねたそうです。 原石のサイズは971カラットあり、カリナンが発見されるまで最大の原石でした。 そして10個のカットダイヤに分けられました。 |
・エクセルシオールT 69.68 ct (ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオールU 47.03 ct ( ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオールV 46.90 ct (ペアシェイプ・カット) (the Rovensky?) ・エクセルシオールW 40.23 ct(マーキス・カット) ・エクセルシオールX 34.91 ct (ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオールY 28.61 ct (マーキス・カット) ・エクセルシオールZ 26.30 ct (マーキス・カット) ・エクセルシオール[ 24.31 ct (ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオール\ 16.78 ct (ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオール] 13.86 ct (ペアシェイプ・カット) ・エクセルシオールXI 9.82 ct (ペアシェイプ・カット) |
グレート・ムガル /グレート・ムガール(Great Mogul / Great Moghul) |
タージ・マハルを建てた事で有名なムガル皇帝シャー・ジャハーンの息子アウラングゼーブ帝が フランスの宝石商タベルニエにこのダイヤを見せたと言います。 皇帝の財宝を見ることを許された最初のヨーロッパ人であるタベルニエの話によると、 グレート・ムガールは1550年頃にゴルコンダの近くの鉱山で発見され、原石は787.50ctの 重さがあったといいます。 しかし、タベルニエが見たときは280ctしかなく、卵を半分にしたような形と記しています。 実は、このダイヤには内部に沢山のきずが入っていたために、研磨師に何度もサイズを 減らさせることになったのです。 研磨の間違いから、元の780ctから280ctしか残らなかったのでした。 ペルシャの王、シャー・ナディールによる1739年のデリーの陥落により、グレート・ムガールや コー・イ・ヌールを含む皇帝の財宝はペルシャ人の手に渡りました。 1747年にシャー・ナディールが彼の将校たちに殺害された後、全ての宝石の足取りは失われます。 だいたい同じ形をしたオルロフではないかといわれています。 グレート ムガール(ムガル)の名は1526年から1858年までインド北部を支配していたムガール帝国に 由来することは想像に難くない。 尚、ムガールはペルシャ語でモンゴル人を意味するムグールがなまったもの。 これは帝国の祖、バーブルの母がチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とする一族の王女であった事に 由来する。 |
パリ国立図書館が所蔵するジャン・ピエール・タベルニエの「6回の航海」 (刊行1679年)に収録されたグレートムガール。 ローズカットであることが分かる。 この図版にはタベルニエがインドで見たダイアモンドが数多く収録されている。 |
オルロフ(Orloff) |
卵を半分に切った形の199.60ctのダイヤモンドで、クレムリン宮殿の ロシアの財宝の一つとして、皇帝の王笏にセットされ展示されています。 このオルロフ・ダイヤモンドは、1774年グレゴリ・オルロフ伯爵が、ロシアの 女帝エカテリーナ2世に献上したものです。 オルロフ伯はアムステルダムで45万ドルで購入したといわれます。 一方、このダイヤはフランスの宝石商タベルニエがインドで見て以来歴史的に 消失したといわれる、グレート・ムガル・ダイヤモンドではないかといわれています。 オルロフ伯が手にしたダイヤが本物のグレート・ムガル・ダイヤモンドであるなら、 ペルシャ王シャー・ナディールによるインド・デリーの陥落の際の戦利品の一部であり、 それがアムステルダムにもたらされたものと考えられます。 |
センティナリー・ダイヤモンド(The Centenary Diamond) |
273 カラット(54.6g) の重さがあり世界で三番目に大きなカッティングされたダイヤモンドである。 センティナリー・ダイヤモンドはカラーグレードがD(無色)にランクされ、さらに内部、外部共に無傷の ダイヤモンドである。 これはダイヤモンドの色および傷のグレードとしてどちらも最高のものであり、さらにカラットも大きく 希少な鉱物であるといえる。 センティナリーとはラテン語で百周年を意味し、センティナリー・ダイヤモンドと名づけられた理由は この石が1988年5月11日にデビアス社100周年を記念して公開されたものだからである。 |
The Heart of Eternity |
「The Heart of Eternity」 は、27.64 カラット(5.528 g)で、カラーは“ファンシービビットブルーの ダイヤモンドだとGIAより評価されています。 デ・ビアスに売る前の持ち主The Steinmetz groupによってカットされました。 ブルーダイヤモンドは世界中で南アフリカのプレミア鉱山からしか産出されず、しかもその鉱山で 産出するダイヤモンドの内たった0.1%しか発見されない稀少なカラーダイヤモンドです。 原石は 777 カラット (155 g)で、この原石を3つにカットすると決定するまでに4・5ヶ月を要したと 言われております。 一番大きなものはミレニアム・スターで、後の二つがこの「The Heart of EternityDiamond」です。 2000年1月に“ミレニアム・スター”を含め、デ・ビアスの“ミレニアムジュエルコレクション”の一部として 公開されました。 その他の10個のブルーダイヤモンドと共に公開され、トータルで 118 カラット (23.6 g)でした。 デ・ビアス ミレニアム ジュエルは、ロンドンの ミレニアムドーム で、2000年の間中展示されました。 個人コレクターが購入したことにより様々な憶測がありましたが、ロンドンのミレニアムドームの 展示中に売られたと言われています。 |